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デンマークの大学の博士課程、帰国後スポーツアパレルへ

デンマークの大学の博士課程、帰国後スポーツアパレルへ

No.911
  • 現職

    スポーツアパレル 本社部門 海外HQとのコミュニケーション担当

  • 前職

    デンマークの大学 博士課程学生 (異文化コミュニケーションに関する研究)

湯川 美子 氏 30歳 / 女性

学歴:慶應義塾大学 総合政策学部 総合政策学科 卒
慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 修士課程 修了
TOEIC 805点
Goethe-Zertifikat C1
ドイツ語:ビジネスレベル
剣道三段
体育会剣道部 卒部

今まで一般企業での就業経験の全くなかった私が、30歳になって初めて就職活動をした経験をここに綴りたいと思います。

背景: 研究の中断と親の介護を経て、就職へ

私は日本で修士課程を修了したのち、デンマークの大学で研究活動を続けていました。「どうして研究の道に進もうと思ったのか」 というのはよく尋ねられる質問ですが、ただやめられなかったから、それだけです。経験のある方も多いかと思いますが、何か1つの物事を知りたいと思って追究し始めると、自分が知らないことが10出てくる。それを1つ1つ調べていったら、また知らないことが出てくる。そのループにはまりながらも 「知りたい」 という欲求に逆らえず、まずは博士課程に進んで研究を続けることにしました。

デンマークあるいは他の北欧の大学では、博士課程の学生はお給料をもらいながら研究と講義をしなければなりません。私は自分の研究プロジェクトを計画し、それに対する奨学金を獲得して、研究費と生活費に充てていました。プロジェクトは 「異文化間コミュニケーション」 と呼ばれる分野のもので、文化的・言語的背景の異なる人々のコミュニケーションについての研究です。私は特に、日本企業の海外支社で駐在員と現地スタッフがどのように意思疎通を行なっているのか、どのような困難を抱えているのか、そこでは個々人のアイデンティティがどのように表出しているのか、といったことに焦点を当てていました。研究背景にあったのは、海外駐在中の日々の職場でのコミュニケーションを分析することで、その実態を解明し、働く人のスムーズな職務遂行に貢献したいという思いでした。

3年程が過ぎた頃に父が出血性脳梗塞で倒れ、もう命はないと宣告されたがなんとか危機は脱した、という連絡が入りました。命は取り留めたものの、重い後遺症のため介護が必要な状態になったそうです。私は研究所の同僚や上司と相談し、休職して介護のために帰国する決断をしました。脳梗塞の場合、発症後早い段階で集中的なリハビリを行なうことが回復には肝要とのことなので、1、2年の予定でインテンシブに父の介護に従事することになりました。デンマークには家族を最も大事にする社会的風潮があり、周囲の人々が背中を押してくれたことが、自分のキャリアにはマイナスでも、人生にとって重要な決断をすることにつながりました。

九州の実家に戻り、毎日父の介護をしながら、すき間時間に細々と研究を進める生活が続きました。ビデオ会議やメールでデンマークのスーパーバイザーとも連絡を取りながら、論文を発表したりもしていましたので、正式には休職していましたが実際は研究活動を行なっていました。それはもちろん、父の状態が安定したらデンマークに戻る予定だったからです。しかし研究は、資金を得られなければ進めることができません。資金探しを始めましたが、思った以上に難航しました。そして、頼みの綱であった民間の研究費への応募が不採用となり、デンマークに戻る計画そのものを見直す必要が出てきました。

これが転職活動を始めることになった背景です。休職する際に、日本で働きながら研究を続けるという可能性も上司と話していたので、特に問題はありませんでした。むしろ、私にとっては好機となったかもしれません。なぜなら、ビジネスシーンでの異文化間コミュニケーションを研究者の立場から観察するなかで、実際に自分も当事者として企業で働きたいという思いが強くなっていたからです。それは、研究を始めた直後から既に感じていたことでした。ですので、研究の道半ばではあったものの、私は一般企業での就職という方向に舵を切ることにしました。

初めての 「転職」 活動: マーケットリサーチ

父の介護をする傍ら、まずはインターネット上の求人情報に広く目を通すことから始めました。これまで一般企業での就職活動をした経験が全くなかった私は、どのような業界や職種が存在し、どのようにカテゴライズされているのかを学ぶことが第一歩でした。その中で、自分の持てるごく僅かなスキルが求められるのはどのようなポジションなのか、就職のマーケットにおいて自分の市場価値はどれくらいなのか、それを知るためのリサーチでした。

この段階で私が最も重視していたのは、「自分にできる仕事を探す」 でした。これが良いか悪いか、私には分かりません。転職をする人の中には、「自分が何をしたいのか」 を基準に仕事を探すケースも多いと思います。しかし私には、そのような余裕はありませんでした。そして正直なところ、私はここ5年ほどで完全に自信を失っていました。修士課程に進んで研究を始めてからというもの、常に自分の実力以上のことを求めて壁にぶつかり続けていたため、「自分には何もできない」 というネガティブな思考が身に染み付いていたからです。

そのような考えから、まずは 「こんな私に何ができるか」 という視点から求人情報をピックアップしていきました。学生時代にNPO法人で理事秘書のアルバイトをしていた経験があったので、秘書・アシスタントポジションを中心に求人を探し、応募要件や求められるスキルを熟読して応募できるものを見つけるというステップでした。

応募: 人材紹介会社を通じて自分自身と向き合うことに

そのような作業を続けるなかで、ドイツ人付き秘書というポジションが目に止まりました。条件を読んでみると私にも応募できそうですし、日本語、英語とドイツ語でのコミュニケーションが可能な私にとって、願ったり叶ったりの魅力的な求人でした。これに応募したいと思い、エリートネットワークさんとのやりとりが始まりました。

まず私の想定と違ったのは、すぐに希望の求人に応募となるのではなく、求職者の経歴やスキル、転職理由や希望等についてご担当の小中出さんとじっくり話し合うことから始まるという点でした。当然、いろいろなことを質問されます。これが私にとっては、「なぜ働くのか」、「自分は何をしたいのか」 を考えるきっかけとなりました。そして、論理的に物事を分析し、聞き手や読み手を納得させるような理由付けによって結論を導く、という思考方法が身についていた私は、自分の人生の整合性を問われることになりました。

その過程において見えてきたのが、自分のライフワークとなり得るものです。見えてきたと言うより、原点に立ち返って再確認することができたと言えるでしょう。そこで絶対に譲れない条件として出てきたのが、何らかのかたちで “異文化間コミュニケーションに携わるポジションで働きたい”、ただその一点でした。研究者としてこの問題にアプローチすることが財政的に難しくなっても、この分野から完全に離れることはできなかったからです。ですので、応募する求人を決める際は、外資系企業、外国人の多い職場、あるいは海外とのやり取りの多いポジション、等がキーワードでした。

最初に応募したいと思ったドイツ人付き秘書のポジションを含め、多くの求人に応募しましたが、書類審査の段階でことごとく却下されました。その理由が、「経験がないため」 でした。採用側としては即戦力を期待しますし、私が30歳になって一度も日本企業で働いたことがないのは事実ですので、これはある程度覚悟していたことでした。そのうえ私は自分のスキルに懐疑的でしたので、不採用となることに対して精神的な準備はしていたものの、やはり厳しさを痛感せずにはいられませんでした。

ここで、転職活動の難しさを感じるだけでなく、人材紹介会社の強みを感じることになりました。それが、私のスキルを求めている企業を見つけ出してもらえる点です。ようやく私は、小中出さんが時間をかけて私の経歴や希望を掘り起こして下さった理由を理解しました。そして、私としては全く武器にするつもりのなかった、学部時代の体育会での活動経験に目を付け、スポーツ関連企業 (A社) の求人を紹介して下さったのです。

実はこちらの応募と並行して、別の人材紹介会社を通じて外資系製造業のB社にも応募をしていました。そのきっかけとなったのは、やはり秘書・アシスタントポジションを探しているうちにある求人に行きつき、コンサルタントの方との面談の中で、英語でのプレゼンテーション力を評価してもらえたことでした。これまで自信のなかった私にとって、自分の中にあるスキルや強みを引き出してポジティブな見方を与えて下さったのは、転職活動においてだけでなく私の人生の中でも大きな力となりました。

面接: 改めて現実を痛感することに

このような流れで、私はA社とB社を第一志望群として面接に進むことになりました。実際に面接に臨んでまず感じたのは、研究活動あるいは研究者に関する背景知識が、採用担当者側にほとんどないということです。むしろ、ステレオタイプで私のことを見ていると感じました。具体的に言えば、「研究者は自分の興味のあることを、自分の好きなように追究していくのが仕事だ」 という偏見がどこかにあって、そのような人間が他の社員と協力できるかどうか不安に感じているようでした。

しかしよく考えれば、異なる世界やその組織中の人間について知らないのは当然のことです。研究者といえ、資本主義の社会においては利益の追求が要求されますし、他の同僚との緊密な連携も必要であり、常に雑務やデッドラインに追われてあくせくしているのが実情です。研究者の世界では何が当然なのか、一般企業との共通点あるいは相違点は何なのか、それらに関する考察が私には欠けていたと思います。

改めて、自分が他人からどのように見られているのかを把握する難しさを感じました。自分自身あるいは自分の持つ経歴が他人にどのような印象を持たれるものであるのか、そのようなステレオタイプを通すと自分はどのように見えるのか、そして、私自身気づかないうちに発してしまっている態度はどのようなものなのか。これらを客観的に分析できなければ、いい出会いにはつながらないのだと感じました。

そもそも私は 「経験」 がないことを自覚していましたので、採用側の求める要件に合うものを、自分の数少ないスキルの中からかろうじて見つけてこじつける、という面接の準備をしていました。しかし、そのようなものはすぐに見破られてしまいますし、これがやはり最大の困難な点となりました。B社の面接では、はっきりと 「経験は真っ白に等しい」 と言われました。その面接官は、それでも私の人柄を買って下さったのですが、次の最終面接で不採用となりました。原因は、ビジネス全体を見渡す視点が欠けていたことにあったと思います。そしてそれは、企業での就業経験のない私にとって、克服するのが非常に難しいハードルでした。ここで私に欠けているものが、結果として厳然と露呈することになりました。

このような私自身の面接へのアプローチとは異なり、小中出さんからアドバイスされたのは、とにかく 「ここで働きたいという意欲」 を率直に述べる、ということでした。また、自分のやりたいことにこだわるのではなく、「なんでもやります」 というアピールも必要だと言われました。そこでA社の面接に際しては、事前に論理的な整合性を高めるような準備はほとんどせず、より自然体で臨みました。そして、それが結果的には3回の面接を通じて採用へと結びつきました。

なぜ自然体でいられたかということには、実はB社の方が先に選考が進んでおり、志望度も若干高かったという点が挙げられます。しかし、A社で面接を受けるうちに、この人たちと一緒に働きたいという思いがどんどん強くなっていきました。体育会出身の方々の熱い言葉は、研究の道に進んでその素直さを忘れかけていた私に、自分の思い描く未来を純粋に希求する情熱を思い出させてくれました。応募していたポジション自体にもより魅力を感じるようになり、B社で応募していたポジションよりもむしろ自分のライフワークに近いことに気付きました。面接の中では、私が社会においてどのような貢献ができるのかを問われる厳しい質問も受け、改めて自分が研究を始めた頃の人生の目標にも立ち返るという貴重な機会にもなりました。

採用: 今後の抱負

私の今回の転職が成功だったか失敗だったか、勿論まだ分かりません。エリートネットワークさんには、自分の力だけでは見つけられなかった素敵なポジションでのお仕事を紹介していただきました。結果論ではありますが、プロの目から見て、現在の私に最適なマッチングへと導いて下さったのだと思います。将来的にこれが成功だったと思えるよう、そしてこの転職が私の目標達成の 「近道」 ではなくとも大きな好機となったと言えるよう、これからの新しいミッションに精一杯取り組んでいきます。

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