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重工メーカーで培った航空宇宙の経験を活かし、外資コンサルから、総合商社へ

重工メーカーで培った航空宇宙の経験を活かし、外資コンサルから、総合商社へ

No.1217
  • 現職

    財閥系 総合商社 航空宇宙事業部 事業企画

  • 前職

    一部上場 大手重工メーカー 航空宇宙部門 品質保証→設計→PM→生産管理
    外資系 戦略コンサルティングファーム コンサルタント

長田 和臣 氏 38歳 / 男性

学歴:熊本県立 熊本高等学校 卒
大阪大学 工学部 応用理工学科 卒
日科技連 品質管理検定2級
日科技連 VEリーダー検定試験合格
TOEIC 925点
(ISC)2 Systems Security Certified Practitioner

1.新卒での就職

私は国立大学の工学部を卒業し、いわゆる学校推薦枠を活用して重工業の航空宇宙部門に入社した。この一社しか面接を受けていないし、他には目もくれなかった。
文系諸氏からよく言われる「ずる過ぎる」と言われるスタイルである。
面接では「なぜウチじゃないといけないのか理解ができない!」と履歴書を投げ捨てられ、その圧迫ぶりに驚いたものだが、ふたを開けてみれば防衛航空機部門での品質保証業務からのスタートであり、全てが自身の望んだ通りとなった。

私は子供のころから飛行機や車が好きという典型的な乗り物少年であり、その一方で同居していた祖父からは戦争体験(悲壮的な話だけではなく、そういう時代をどう生き抜いてきたかというもの)を聞かされていた。自らが世の中に出るにあたり、やりたいことと、平和に豊かに暮らせる国・環境を死守・発展させてくれた先人の努力に幾ばくでも報いたいという気持ちがあったことから、この企業・配属先の選択は私にとって至極真っ当なものであった。

2.重工メーカーでの業務

入社してみると、理系として就職した周囲の同期はそのほとんどが大学院卒。いくら良い大学を出ていても、理系における学卒と院卒は格が違う。ましてや私などバイトに明け暮れ留年し、大学を5年過ごした身である。独身寮に入居した同期の皆は優秀に見え、そして実際にそうだった。

仕事を始めて1週間もすると、社内の様子もだんだんと分かってきた。やはり歴史の長い大手の重工業である。皆ロジカルで頭が良い。当時の指導員は「君は論文を書いて卒業したのだよね?全く筋が通っていない。無駄な言葉は多いし、章立てもおかしい。裏付けとなる重要な情報も書かれていない。」と半日がかりで書き上げたA4用紙3枚にデカデカとバッテンを付けられ突き返される。これを何度も繰り返す。自らの無能さを直視せざるを得なかった。
同期、同僚、先輩、上司。全員が私よりも優れていると感じた。

ここで一つの気づきを得た。まずは自らの置かれたポジションをよく理解すること。そして信頼を勝ち得るために、雑用でも何でも細かい仕事から着実にこなし続けること。さもなくば、私自身の存在価値は無いのだと。
そこからの2年間は、業務の様々な局面で自分の無能さと向き合い続ける日々となり、精神的に辛かった。しかし、同期の皆が良い意味で全員仲良くしてくれたこと、部署の中でも徐々に私を一人のキャラクターとして扱ってくれるようになったことが救いとなり、なんとか独り立ちに近いところまで仕事力を磨いた。

品質保証では品質マネジメントシステムに基づく監査、不具合調査、顧客への謝罪と社内の是正、統計的品質管理などの手法を学んだ。この中でプロダクトの調達・製造・組立全般で人と関わることができた。
この手の部署は「嫌われ役」であるが、幸い自分は年上の人間と話すことを苦としないタイプであり、周囲の助力を得られたおかげで比較的スムーズに仕事を進められた。

次なる部署は設計部門である。いわゆる花形かつ目立つ部署への異動で、これも自分の望み通りである。ここで初めて海外メーカーとの協業を経験した。
英語はなんとか読めるが書くのは一苦労、しゃべるなんてもっての他。そもそも新婚旅行までパスポートすら作ったことがない人種であっただけに、これが一番の難所であった。とは言え自分が望んだ業務である。大変だが楽しかった。

そんな日々を過ごしているうちに、カスタマーが新型の航空機を導入するとの話が持ち上がり、どの海外メーカーと協業すべきか自社でも考えるようになっていた。私は当時のプロダクトにおける設計元メーカーと今後の協業について検討・交渉するよう上司から預かり、身震いした。20年に一度の導入である。このタイミングでプロジェクトが立ち上がったらこれほどのことは無い。
意識が変われば行動が変わる、という言葉の通り、それまで苦手としていた英語も自学自習で習得でき、プロジェクトの立ち上がりにおける忙しさも高揚感も楽しむことができた。

この中で、代理店を担当する総合商社の一人と仕事を共にし、海外との付き合い方、駐在とはどういうものか、などを学んだ。この方は今でも私にとってのロールモデルであり、人間的な魅力にあふれた方である。彼との仕事を通じ「商社における事業企画も面白かったのだな。」と思ったことはあったが、自分の人生と総合商社が交わることは無いだろう、と別世界のお話としてしかイメージしていなかった。

3.海外駐在

上記のプロジェクトで協業する海外メーカーから、技術リエゾンを置いてほしいとの話が出た。この手の話はよくあることで、私自身も挑戦したいポジションであった。上司は「手を挙げなくても行かせるつもりだったので、行く時期も現地でのミッションも含め全部自由に決めたらよい」と、優しいのか優しくないのか、全権委任してくれた。

駐在先の米国では、技術的な調整を窓口として担当したり、プロジェクト管理全般で米側と調整したり、サプライヤー開拓や管理を担当した。米国というフィールドの中で、米国流の働き方に触れ、今までの仕事観・人生観を覆される出来事ばかりであった。

私にとっては良い刺激で勉強にもなり、従前の純日本的価値観だけではない物の見方を得る一方、「米国流」の欠点もわかった。同時に出向元の会社での働き方や、事業の展望、ディシジョンメイキングの遅さ、以前にも増して責任回避の姿勢が強まっている風土にフラストレーションが高まっていった。

4.帰国、そして一回目の転職

4年半にわたる米国駐在を経て帰任した先は、生産管理部門であった。幹部の意向は分かる。新型プロダクトの生産がままならず、海外メーカーにずっとやられっぱなし。生産部門はサイロ化していて内向き志向でアカウンタビリティに乏しい。英語が話せて、欧米人に対してケンカはせずとも、是々非々で落としどころを探れる人材を火消しに使いたいのはよく分かる。

しかし、その人事は私の考えるキャリアパスとは全く異なる方向を向いていた。問題の本質は思うような品質とスピードで生産ができない自社にあるにもかかわらず、結局は海外メーカーに対し「言い訳を準備」し、生産部門に火の手が及ばぬようにするだけ、の仕事である。私はこの人事を決めた上層に掛け合った。
「私は私のポジションで得られる裁量と権限を基にできるだけのことはする。が、問題の本質に手当てしようとした場合には幹部自らが動かねばこの局面は改善しない。上層部は何かしら手を打つ計画はあるのか。」
明確な答えは無かった。

一方で、やりたいことをやろうとすれば出る杭は打たれる。何もしなければ給料をもらえ、昇進もするという姿を若手や後輩に見せるのは私のポリシーとして許せなかった。このあたりで、私の中で転職の決意が固まった。

航空宇宙ビジネスで身を立ててきた私にとって、米国駐在の経験もあり当時の望みは①航空宇宙関連のビジネスができること、②航空宇宙領域を離れてもビジネスができるスキルを得ること、であった。いわゆる大手のエージェント数社に登録したが、①は総合商社や外資系メーカーなど、なかなか求人が無かった。そこで②を考えた際にコンサルという選択肢が現れた。
各社4度の面接を経て、Big4の二社から内定を頂くことができた。航空宇宙製造業の出身であること、海外駐在含め英語力の二点が功を奏したものと思う。より親和性の高い航空宇宙関連プロジェクトがある片方を選び、14年勤めたメーカーでの仕事に一旦区切りをつけた。

5.コンサルタントとしてゼロからの再出発

人生初めての転職。しかも人の出入りが激しいコンサルとなれば色々不安でしかない。

早速プロジェクトに配属され、相手は航空宇宙関連メーカーであった。業務知見のマッチングは最高である。ここでは業務プロセスを改善・標準化しつつシステムを導入するという仕事を担当した。
一つ一つの仕事の進め方がかなりきっちりとしている、という印象で、情報の整理・文書での表現など、それぞれかなり学ぶところがあった。問題の本質は何か、一般化・構造化するとどうなるかを常に問い続けるあたり、考え方のスマートさに圧倒された。

業界が変われば新人とそう変わりない。私はコンサルのお作法を最低限身につけるまでに少なくとも6か月はかかった。その傍ら、業務知見の厚さはそれだけで戦えるネタでもあり、クライアント企業とのリレーションは構築しやすかった。

プロジェクトの進捗に伴い、派生型プロジェクトも担当するようになった。事業戦略の立案支援などである。コンサルとしてイメージしやすい仕事でもあり、フレームワークを学びつつ検討を進めることは、自身の認識を整理する上でも有意義なものであった。何より、クライアントに感謝されるのは何ものにも代え難い喜びである。
プロジェクトが驚くほどのスピードで進むため、様々な知識を身につけられる一方で、コンサルの仕事を進めれば進めるほど、航空宇宙業界の実業の場でもう一度プレーしてみたい、という気持ちの高まりを誤魔化すことができなくなっていた。

またこの仕事、どうしてもクライアントとの調整が多いからか常駐が多く、平日はずっと自宅から遠く離れた場所に泊まり続ける生活であった。コンサル技能を身につけるためとはいえ、土日も違わず深夜まで勤務するスタイルで1年が経過し、周囲では倒れるメンバーもいる中、「このままでは色々立ち止まって物事を考える時間が無くなる/体を壊しかねない。」という不安が生じていた。コンサル人生はプロジェクト運に左右される、との噂を耳にしたことはあったがどうもそれは事実らしい。
そんな思いを経て、再度転職活動を進めることにした。

6.二度目の転職活動

再度転職サイトに登録し、今度は前回諦めた航空宇宙関連の事業を行っている企業を目指すことにした。いくつかのエージェントから連絡があり、様々な提案があったがどれも自分の中でピンとくるものではなかった。その中で外資系航空機メーカーの求人案件が目に留まり、選考を進めていたがコロナウイルス及び同社の品質不適合もあり採用中止。
そんな時、一人のエージェントからのメッセージがふと目に留まった。一度スルーしていたが、二通目のメール。求人案件をよく見てみると「総合商社、航空宇宙、事業企画」である。要件を見ると実にマニアックであるが、いずれも満たしていると言える。
もしかして、と感じた。早速、連絡を取ることにした。

エリートネットワークの転職カウンセラーの高橋さん。今回お世話になった方で、求人案件について電話にてお話を伺うことにした。した筈であった。実際はその逆、高橋さんからありとあらゆる質問を矢継ぎ早に受け、こちらが答えるばかりであった。
エージェントってこういうものなのだろうか!?という驚きはありつつも、世の中色んな人がいる、ということでまずはきちんとお答えするのが筋と思い、全て正直にお答えすることにした。

衝撃的な電話面談の後半で、実際に応募する運びになった。若干狐につままれた気分のまま、必要な書類を提出し、選考結果を待つ。その間、総合商社の勤務体系や給与面などについて、前回の電話面談で取り切れなかった情報を伺うために再度高橋さんと電話することにした。
高橋さんは相変わらずの調子であるが、そこで初めて教えてくれた。最初の面談での質問攻めは、私が商社マンとして働くに際し、必要な素養を備えているかを測るため、と。私は驚いた。そして納得した。
確かに、エージェントは企業の採用活動をある意味肩代わりする存在であり、いたずらに人を面接に送り込むことは良しとしないと。その上で、私にはその適性があると思うと言われ、私はただただ恐れ入る思いであった。

書類選考を通過し、その後面接は計4回。今回はその期間が非常に長く、応募して内定を得るまでに5か月を要した。面接後に合格をしているのか、次の面接はいつになるのかすらよくわからない状況となり、焦る気持ちも大いにあった。その都度高橋さんに相談し、側面支援として先方の人事部に状況を確認、都度情報を共有いただき、不安の解消に大いに助けていただいた。やはり総合商社だけあって相当数の応募があり、選考も長引くことは無理もない、と自らに言い聞かせ、冷静に待ち続けることに徹した。そして高橋さんを信じ続けた。

7.学んだこと

今回このような「自分にピタッとはまる求人」が出たのはラッキーとしか言いようがない。しかし、選考過程で篩にかけられていった他の候補者のことを考えると「自分の軸は何か、大切とするものは何か」を一本筋の通ったストーリーとして語れるキャリアでなければ、超大手企業の中途採用では厳しいことをよく理解した。
また、それだけではまだ足りず、求人案件を出している企業の人事担当とツーカーの仲で、具体的にどのような人物を求めているかをよく把握・熟知し、合致する人材を見極める力を有するエージェントにご支援頂くことで、合格の可能性が大きく広がるのであろうと身に染みた。

高橋さんは豪放磊落な中に相手を見抜く鋭い眼差しを持った方であるが、何も隠すことなく自分という人間をしっかり見ていただけたことを有難く感じている。ノルマや売上が至上命題とされやすい人材紹介業において、おそらく、このように時間をかけ深く真っ直ぐ向き合ってくれるエージェントは他にないだろうと感じ入るほどであった。

高橋さんに気持ちよく背中を押して頂いたことに深く感謝し、新天地となる総合商社でも国に貢献していく気概で業務にあたりたい。

以上

この転職者を担当したカウンセラーに
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