大事なことはみんなリクルートから教わった2

大事なことはみんなリクルートから教わった2
トップセールス列伝 第1話

営業マンは顧客の信頼を得るために存在する

滋賀県の生まれだ。近江商人がルーツと聞けばその根っからの商売人気質にもうなずける。新人時代、自動販売機の会社から『週刊就職情報』の新規受注を得るために、自分で何十万円もする自動販売機を買ったというエピソードの持ち主だ。

「宅訪」の名人だった。アポイントメントがなくても担当者の自宅を訪問するのである。対象担当者の自宅住所を調べだす「ノウハウ」、万が一突然の訪問に不興を買ったとしても受注につなげてしまう「人柄営業」は秀逸だったという。方法論や小手先だけでうまくいく営業手法ではないだろう。松井隆という人物の頭のよさ、育ちの良さならではの成功例ではなかったのか。

「世の中を知りたい」という気持ちがあらゆる行動のモチベーションであり、上司から指図されることが何よりも嫌いだったから一番を維持し続けて、極力自由に振る舞える様に心懸けていたと言う。

独立する際に自ら選んだ職種は「正社員専門の人材紹介」だ。三〇〇〇社を超えるリクルート時代の営業・取材経験が現在の仕事の財産となっている。

ジャーナリストを目指し同志社大学文学部社会学科で新聞学を専攻した松井隆が、リクルートに惹かれた一番の理由はその組織の柔軟性だった。

多少ませた子供だったかもわかりませんが、高校生のときに、月刊の『文藝春秋』を読んでいました。その頃、日本の総理は田中角栄首相でした。ある日突然『文藝春秋』のひとつの記事、一人のジャーナリストの告発から、一国の総理がその座を引きずりおろされるという事件が起きた。私は、当然田中総理に一度もお会いしたこともありませんでしたが、田中角栄という人物はすごいなぁと子供心に思っていた。ところが、一人のジャーナリストのペンが契機となって、そのすごい男が日本の舞台から居なくなってしまった。これはとんでもないことだなと思いました。まさにペンは剣より強しだなというのを目の当たりにして、多少職業意識に目覚めかけていた高校生だったので、こりゃすげえな、じゃあ、将来はジャーナリストか新聞記者になろうと単純に思いました。

それで、新聞記者になるにはどこで勉強すればいいんだろうと。技術屋さんになるなら機械工学や電子工学という学科がありますけれども、新聞記者は法学部ではなさそうだし、経済学部でもなさそうだし、というので調べていたら、新聞学専攻というのが上智と同志社にあった。とにかく新聞学を専攻すれば新聞記者になれるだろうと思って、同志社大学文学部の新聞学という専攻を選びました。

ただ、そういうふうに職業のことを考えていたとは言っても、高校生の頃は自分のキャラクターとか、メンタリティーというのが深く理解できていませんし、自我との対話もたぶん不足していたと思う。だから、カレーが好きだからカレー屋さん、ケーキが好きだからケーキ屋さんと子供が言うのと同じ感覚で、じゃあ、私は新聞記者か、ジャーナリストと思っていた。

ところが、大学に入ってじっくりと自我を見つめ直してみたら、己が果たして悪を糾弾するような大層な大人物かというと、ちょっと違うなと自分で気づきました。それに、各新聞は論調が何となくアカっぽい。日経と産経新聞以外は全部左翼っぽくて、どの政権がいつ何をやっても全部批判してますでしょ。私はそれが嫌だった。人の悪口を言うなと昔から親が言うてましたから。社会の木鐸だという勝手な理屈をつけて、時の政権の悪口ばっかり言っているような点がなんとなくしっくり来ないと感じました。

自分の体質からいうと同じマスコミの中でも、どちらかといえば広告のほうが向いているな、大衆にPRするほうがむいているなと感じた。それで、普通の出版社や広告会社などを幾つか訪問してみたら、案外皆さん堅いんですよ。つまり、いわゆる日本の従来の、会社というのはかくあるべしという、組織のピラミッドがあったり、四角四面だったりというのをあちこちに行って感じました。

当時から関西学生庭球同好会連盟という体育会でもサークルでもないその中間ぐらいの、それなりにしっかりした組織がありました。私はその連盟の副委員長を同志社の代表という形でやっていました。同じく副委員長をやっていた方が同志社で一期上の先輩におられて、その方がたまたまリクルートに入社されました。

それで、その方からおもしろいアルバイトが(実は青田刈りのための内々の採用面接)があるよと強く誘われた。それも四月か五月というかなり早い時期だったと思います。なめていたかもしれませんが、私は学生時代に一回もアルバイトしたことがありません。みんなは家庭教師や引っ越しの手伝いといったアルバイトをやっていましたが、私は四年間何の束縛もない時間を謳歌したいと思っていました。

時間給がいいからと、家庭教師みたいに責任の重いことを引き受けてしまったら思いつきで泊まりがけの旅行にも行けないですし、ふらっと友達の下宿に転がり込むこともままならない。今晩、八時から家庭教師だと言って友達が早く帰るのを見て、彼らはもったいないことをしているなと思っていました。あれぐらいのお金で自由を奪われている、全くのフリーな時間を享受できるのは、もう学生時代の今しかないのにと本心から思っていました。これは取りも直さず、両親が私の奔放さに片目どころか両目をつむってくれていたから許されたことだと思いますが。そういうわけで、バイトしないと言っていたのにその先輩からバイトに来いと誘われた。

僭越にも「単純作業は絶対嫌ですよ」とその先輩に言い返したら、そういう誰にでもできるバイトじゃなくて一泊二日のモニターだと。どこでやるんですかと問うたら、JR芦屋駅のそばにある邸宅のような研修所でと。具体的に何をやるのかと尋ねてみると、学生の職業意識の調査だから、自由に意見を言うだけでいい、俺の顔を立てて行ってくれと。それがいわゆる面接でした。

その面接の場には、いわゆるリクルーターの若い人が何人かと、夜になったら浴衣姿の四十歳くらいの方が、三、四人来られた。それが当時の取締役でした。我々学生サイドはそんな若い人が取締役の偉い方だとは思ってもいなかったわけで、その四十過ぎぐらいのおじさんたちが、こちらをずうっと遠巻きに見ていた。それで、その一泊二日が終わったら、すぐまた会社に来いと言われる。何をするんですかと聞いたら、またアルバイトをせよと。そういうパターンで引っ張られる中で、リクルートというのはどんな事業内容かを聞いたら出版をやっていると、君がやりたいと言っていたことと近いと言われました。

「近いようで近くないですよ」と私は感じましたけど、そのときに殺し文句があった。それはリクルートというのは柔軟な組織だと。私はもともと官僚的な会社、四角四面、融通がきかないことは大っ嫌いで、ほかの会社を見るとみんなそんな感じだった。うんざりしていたとき、最後にそう言われた。これで、私は喉元を突かれたようなもので、わかりましたと。ただし、口で言うてるだけかもわからん。「御社もほかの出版社同様、人事部の人はそうおっしゃってますけれども案外堅いんとちがいますか」と問いただしました。それで、私は当時関西におりましたから、大阪支社で一番偉い人に会わせて欲しい、その人の顔を見ておきたいと。臆面もなくお願いしてみたのです。

そうしたら、やはり四十歳過ぎぐらいの方で岡崎支社長という、現在株式会社リクルートエイブリックの社長さんをやっておられる方が出て来てくださり、「うちへ来いよ」と温かく迎えて下さった。うちの組織は本当に若くて柔軟だよ、私は一番の責任者だと、あまり年配の方はいないよ、だから好きにやってくれたらいいんだよという主旨だった。

その時点では私は何をやっているかという事よりも、組織が柔軟かどうかというのを重視していた。他の広告会社や大手の代理店さんはみんな割と偉そうだった。日本で生まれて世界で育ったとか、クリエーティビティーがナンバーワンだとか言っておられる割に雰囲気が重い。それも四十代でようやく課長さんで、支社長さんが四十歳といって気さくに話を聞いてくださる会社はなかった。

でも、リクルートをのぞいてみたら、従業員の皆さんはおじさんというよりもお兄さんのノリがまだ残っていましたから、本当に柔軟だということに惹かれたのがいちばんの理由でした。

そのときになぜ支社長に会わせて欲しいと、偉そうなことを申し上げたかというと、そんなノリで組織が柔軟ということは、その反面会社がいいかげんということですから、やっぱり内定をやめたと言われたら、またもう一回就職活動を始めないといけない。その当時は夏休み前後が活動のメインでしたから、支社長さんとお会いして内定したら、学生最後の夏休みは他のことができると思ったからです。リクルート以外の企業をチョロチョロして回るとか、こすっからいことはしませんでした。

まわりの友達はみんな「もっと大きいところに行け」とか、「そんな会社おまえ、だれも知らんで」とか言ってアドバイスしてくれました。友人は何をしている会社かよくわかってなかったですし。当時、ベンチャーと言う言葉はまだなかったですから、江副さんは「若手起業家」と称されていました。そんな形容しかなかった。しかし、江副さんという人はとにかくすごい方だ、だから修行させてもらおうと腹をくくりました。

また、この会社は形式的なことよりも、本音でぶつかるような人間のほうが、好きだというのもわかりました。立ち居振る舞いを計算するとか、このように言えば受けるといううことを考えた行動よりも、荒削りであっても、心の底から本気であれば良しとされたのです。それも組織が柔らかいということです。銀行なんかでは本音を言ったらすぐ飛ばされますが、当時のリクルートは、その逆でした。こういう風土は、自分の生来の性格や持ち味を引き出してもらうのに、十分心地よいものでした。

元々私の実家は祖父の代から薬局をやっていました。継ぐよう言っても聞かないと思っていたのでしょう。小さい頃に、親が自由に職業を選んでいいといってくれたのは、私の最大の感謝です。たとえば、薬大に進学するようにとは言いませんでした。行きたくないんだなというのがわかってくれてましたから。「継がない」と言ったら、「構わん」と。それはとてもありがたいことでした。もし仮に無理矢理、継げと強要されていたらぐれていたかもわかりません。歌舞伎みたいに、絶対継がないといけないような職業の家に生まれて、親が継げといったら俺はどうするかなと、よく子供心ながらにシュミュレーションしたりしてました。自分は幸せ者だなと思っていました。

自分のことは自分で決めたい。失敗をしようが遠回りしようが自分で決めたいと。既存のレールというのはぜんぜん肌に合わなかった。だから、リクルートは結果的にそんな自分をよくぞ、選んでくださった。

リクルートは、まさにそういう主体性の強いタイプの固まりかもわかりません。人生に対して相対的に本気度の高い人間が多いと思います。

一九八〇年(昭和五五年)株式会社日本リクルートセンター(以下リクルート)に入社。同時に株式会社就職情報センター大阪支社営業課に配属になった。入社即、子会社への出向ということになる。当時、『B-ing』の前身である中途採用の求人誌『週刊就職情報』の事業は、子会社の株式会社就職情報センターが担当していた。

私は株式会社就職情報センターという名刺を最初にいただいたわけですが、当時リクルートですら有名でなかったのに、その子会社でリクルートの「リ」も名乗っていない社名でやりやすいと思いますか?

これって意外とつらいですよ、営業に行ってもリクルートって言えないんですもん。新規の開拓でアポイントを取るときでも、株式会社就職情報センターと名乗らないといけない。

その時点では、リクルートグループで中途採用の情報誌は『週刊就職情報』しかなかった。当時求人の情報誌は、新卒向けの『リクルートブック』という分厚い本があって、これはリクルート本体が扱っていました。中途の方は二年前に創刊された『週刊就職情報』一誌があっただけで『とらばーゆ』はまだ発行されていなかった。現に『週刊就職情報』には広告もあまり集まっていなくて、お世辞にも立派な情報誌と呼べるものではありませんでした。

『リクルートブック』の、新卒採用のクライアントはありましたけれども、中途求人誌の顧客というのは正直言って少なかった。だから薄い本なんです。今でこそ一号に何百社と載っていますけれど、その頃は毎号一〇〇社に届くか届かないという程度のボリュームでした。まず、電話をする。いわゆるコールド・コール(それまで接触のなかった顧客に電話でセールスすること)です。それで開拓してアポイントをとって、こんな本がでているんですが一度使ってもらえませんかと案内をしに行く。あとはもう本当に飛び込みです。

マナーとか、会社の仕組みとか、社内伝票はこう書きなさいとか、そういう研修が一週間ほどあって、その後、二週間程度先輩のお尻にくっついて同行させて頂いて、たしか入社一ヶ月目ぐらいから飛び込み営業を始めていました。先輩も忙しいですから、メンタルなフォローや教育体制も未整備な点が多かった。好きにやれと言われて、確かに柔軟だなとは思いましたけど。五月のゴールデンウィーク明けから本格的に放任の状態となりました。

普通、新入社員にそんなことさせたら一旦、途方に暮れることになると思います。でも、暮れへんような人間を採用してくれたんとちがいますか。私と一緒に営業に配属されたのは関西学院大学の合気道部の主将で、二人ででどうしようかと顔を見合わせたこともありましたが、じっとしていても何も始まりませんから片っ端から電話するなり、飛び込み営業するしかない。

最初からうまくいかないことは、ある程度は予測していましたが株式会社就職情報センターという会社の知名度のなさを痛感しました。自分は入った会社だから知られているつもりでいましたけど、世の中には認知されていなかった、ここまで知られていないかと。おまけに中途採用をする場合には、新聞にはさむチラシや新聞広告で十分だという時代ですから、応募者はわざわざ情報誌なんて買ってまで読まないよ、そんなの出しても無駄だよと断られる始末。この繰り返しに「そうおっしゃらずに」と話を聞いて頂く。A社さんは、これで良い人が取れましたと言う事例を出しながら、説明をひとつひとつコツコツ積み上げていく。そういう地道な布教活動を繰り返していました。

リクルートは、創業二〇年の歴史があっても就職情報センターはできて二、三年の新しい会社。事業形態も微妙に異なり、リクルートが培った営業ノウハウを生かし辛く、組織だった営業体制が共有されているわけではなく、ただし発行号毎の締切日迄に、受注目標だけ来るという、そんなパターンでした。

そういう中で具体的にどうやっていたかというと、新聞を数紙自分で購読して求人欄を全チェックする。それから、当時競合会社が出していた求人情報誌的なもので『週刊正社員情報』、『日刊アルバイトニュース』、『日刊アルバイト情報』、そして折り込みのチラシも全部集めて自宅に保存しておく。これは大変でしたよ。それで、これを見てどの会社が大阪市内で求人頻度が高いかを自分なりに分析して、次の日の行動予定を作る。

例えば、見込みのありそうな会社を二〇社ぐらい事前にリストアップして、一筆書きでうまく回れるコースを、前日に行動計画として練り上げる。大阪支社があった新大阪から中津、中津から梅田、梅田から淀屋橋、淀屋橋から本町、本町の会社に一、二、三社と行って、それから心斎橋に行って、南森町方面に移動し、もう一回新大阪の支社に帰ってくるとか。このように、距離的にも時間的にも無駄のない流れのコースを作って、どういうふうに回れば効率的に動けるかという計画を毎日練っていました。その効用として嗅覚がめちゃくちゃ養えました。こういうのはだれから教えてもらったわけじゃない。どうしたらいいか自分で工夫するんです。私はその仕事を全身全霊を打ち込んでまる三年半やっていました。

幸いなことに営業活動を始めてほどなく、私には『週刊就職情報』に掲載したいという受注が、むちゃくちゃ舞い込んで来ました。早い時期からかなり売れました。

入社二年目の四月に結婚したんですけど、そのときに会社から歩いて一〇分のところに親に3LDKのマンションを買ってもらった。それで、そのマンションの一室を全て新聞やチラシ等のメディアを置いておくための自分専用のデータベース部屋にしました。新聞って長いこと置いておいたら虫がわいてきますでしょう。その部屋の膨大な量の新聞紙には、よく一ミリ位の小さな虫がわいて家内が怒っていました。三年前のものまで置いておく。それで調べて、去年の九月に求人した会社に、今年の八月頃に一度声をかける。古い体質の会社では、年中行事のようにこの時期に求人すると決まっているところが何割かある。求人というのは、人が足りなくなったらするように見えますが、総務部長が忙しければ決算が終わってからとか、新卒採用が一段落してからとか、その会社毎に大体パターンがある。

今は中途のキャリア組が採用市場のメインで、伸びている会社は同時並行で求人活動を行いますけれども、当時はのんびりしたものですから、この時期はこの仕事で忙しいから、その次はこれをやって、その間に求人でもしようかと。新卒採用がメインでしたから、中途採用ってそんな副次的な位置づけの会社も多かったんです。

そのような資料を自宅に保存しておいて、その時期になってそれを引っ張り出してくると、やっぱりその企業で去年もおととしも、同じサイクルで求人をしていることがわかる。そこまで探求していくとどうなっていくかというと、求人広告を出してくださりそうな会社が膨大にストックされた資料の中から、目に飛び込んでくるようになる。かつて名ホームランバッターがボールが止まって見えると言ったという喩えじゃないですけど、これは本当ですよ。精神統一する位の気迫で、仕事を終えて疲れて帰宅してからも自宅でそういうことを続けてやっていた。

入社した年(一九八〇年)の一〇月に『とらばーゆ関西版』が創刊になった。同年二月の関東版に続き、その成功を追うかたちの創刊だった。

一年目の後半になったらもう『とらばーゆ』を専属でやるチームのリーダーを拝命したのです。今なら、入社一年目でそんなことあり得ると思います?私が指示をするという形で契約社員の人が数名いたんで一緒にやりましょうという雰囲気で…。

それで、たった半年ぐらいしか経験がないのに、あなたはこの様な動きをして下さいとか、このエリアではこうするんだとか、いろいろなことをまわりに指示しながらやっていました。『とらばーゆ』創刊のときはテレビで大々的にコマーシャルを流したものの、東京とくらべて大阪はそれほど簡単に新しいものに飛びついてもらえませんから。全社的な期待が大きかった分、新人の身としては、精神的に相当負荷がかかりました。

でも、おもろかったですよ。おもろかったというか、何が何でもみんなで関西版『とらばーゆ』の創刊を成功させるんだと、まさに熱病の様に寝食を忘れて働いてました。

『とらばーゆ』を出す前後は大阪市内の北区、東区、西区、南区という、いわゆる中央四区のすべてのテナントビルと大会社に、全員で手分けして飛び込みで案内したり、パンフレットを投げ込みに行きました。これってすごいことですよ。一人一日一〇〇社ぐらいには行かないといけない。説明をしないといけないですし、案内をしてももちろん簡単には出稿していただけません。全員でたぶん一、二万社には訪問したんじゃないですか。きょうはこのエリアへ行くぞと言って蛍光ペンで地図に線を引いて、メインのオフィス街を全部回りました。

ただし、暑いときは地獄ですよ。だから、もう運動部の合宿のノリです。ただ、毎日そればっかりやってるとめげてしまうので、朝いちから十二時半か一時ぎりぎりぐらいまで、みんな各自の持ち場で目一杯活動して頑張ってこいと。その後、北御堂の裏の『美々卯』(有名うどんすき店)に遅めのランチで集合。「にぎわいそば」という食べ放題のそばがある。昼食に奮発して、それをみんなで一堂に会して腹いっぱい食し、もうひとがんばりするという、そんな体育会のトレーニングみたいなことをやりました。でも、ひとつの媒体全体として捉えた場合、このローラー作戦がめちゃくちゃ重要な意味があったわけです。

そうこうしているうちに、テレビ宣伝もあり、コツコツ案内した甲斐もあり、珍しいから載せてみようと言って下さる会社も生まれてきたりで、ある時点からメディアとして急に軌道に乗り始めました。

松井と共に『とらばーゆ関西版』のチームで営業を担当していた玉井宏昌(現・カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社内部業務監査室部長)によれば、松井は間違いなくトップセールスだという。

「リクルートにはトップセールスがいくらでもいます。私も賞状を山ほど持っています。でも、大阪支社にいる人間から東京の営業部門を見ると、たまたまお客様が伸びた時期に担当しただけ、持っていた土地がたまたま高騰して長者番付に載ったようなものという感じは否めませんでした」

誰もがシビアな金銭感覚を持つ大阪は、数多くの顧客に恵まれている東京のセールスとは土俵が違うにもかかわらず、松井は常に優秀な成績を上げていた。

当時の営業部門には目標額の小さい、中ぐらい、大きいという三つのクラスがありました。社内では、ジュニアクラス、シニアクラス、エルダークラスと呼ばれていました。それで、少しでも早くジュニアクラスからシニアクラス、シニアクラスからエルダークラスにならないと認められにくい風土でしたから、私は大きいランクに入れていただいて、そこで達成率のトップを目指そうと、新人のうちから心に決めた。だから、何があっても必死になって帳尻を合わせていました。

こういう言い方をすれば横柄に聞こえますが、どうしたら二番にならなくて済むかということばっかり考えていました。一番なら賞賛されることに加え、何よりもほうっておかれる。つまり、自由裁量が大きくなるわけです。当時はこのことが最も心地よく感じられました。営業部門の一番上のクラスで、最も売り上げを上げていれば、部長さんからも課長さんからも信頼を得、結果として自由に伸び伸びと任せてもらえました。

二年目の春にはエルダークラスにいれて頂いていました。ただ、めちゃくちゃ努力しましたし、眠っている時間以外は常にお取引先のことを考えていました。単なる社内の飲みみたいな集まりには私はあまり行きませんでした。別に同僚が嫌いというのではなく、それは業績のみに執着するということが目的だったわけでもなく、とにかく、社外でお取引先の方々とコミュニケーションして、自分の知らない世界のことを学ばせて頂くことが楽しくて仕方なかったからです。

四半期毎に決算を設ける形で業績の締めがあるわけですが、一番であるということが見えたら、あいた時間は何をしていたかといいますと、売上には直結しないけれど勉強させて頂きたいお客様の所にお邪魔させて頂くんです。仕事と関係がないと言ったら語弊がありますけど、売り上げには直接結びつかないけれど学ばせていただけるようなお客様のところに話を聞きに行く。これは自分のためにです。自分の本業での接点は持てそうにない企業さんであっても、何社もの企業の経営者や幹部の方が、ビジネスマンとして未熟な当時の私自身を受け入れ、かわいがり、わざわざお時間を割いて人生訓や苦労話を聞かせて下さったのです。そういうところに話を聞き、勉強させてもらいに行くチャンスに恵まれたのが最大の財産であり、NO・1であったことに対する天からのご褒美でした。私はもともと新聞記者になりたいと思う時期もあったので、その間に温めたジャーナリスティックな目で企業を取材する感覚で勉強に参上するのは、この上ない喜びでした。

そこでいっぱい吸収できました。これが血となり肉となり、今の自分の一番のベースになりました。もちろん上司や先輩からも教えて頂きましたけれども、お客様から学ばせていただいた、これらの生きた学習が最も大きかったです。

もちろんご発注いただけるお客様から学ぶことはたくさんありました。トップであるというのが見えた、もしくはそれを維持できそうだと判断できたら、余った時間を半日ぐらいはそっちに使って、このように情報をインプットすることをやっていました。これは私にとってまさに至福の時間でありました。

『週刊就職情報』と『とらばーゆ』を担当していた入社三年目は、一年間の取引社数が四五〇ありました。これはべらぼうな数です。今だったら約一営業所分ですからかなりの数だと思います。売上高というのは時間の経過とともにページ単価を改正していけば、間違いなく将来破られます。でも、一人がどれだけ数多くの企業とお取引頂いたかという点においては、この先リクルートの中で、たぶん破られにくいと思います。そんな統計は当時からないですけどね。

その当時の手帳を見せてもらった。受注した会社が四五〇社ということは平均して週に一〇社と成約しており、その数倍の会社を訪問していることになる。びっしりと書き込まれているスケジュールは約束の時間を意図的に曖昧にしてあったそうだ。「何時頃」という幅を持たせたアポイントなら多少前後しても約束を違えたことにはならないし、こま切れの時間も有効に使うことができる。曖昧な約束を許してもらうにはそれまでにある程度の信頼関係が築かれていることが前提になる。

当時の松井のモチベーションは何だったのか。

世の中を知りたい、これだけです。営業に行けば世の中がわかります。

私は大学に入ったときに、バイトはしないと決めました。大学の授業も極力出ないと決めたし、英語は好きでしたけれどそれも深入りするのはやめようと思った。私はやらないという決断をするのがわりと好きなのです。それも徹底的にやらないと決めた。

なんでかといいますと、一ヶ月半くらい大学の授業に出てみたらすべての授業、学問というのは本質的に誰かが作った後を追っかけていくのだというように感じたわけです。これはおもしろうない、やーめたと。それと、この分野で自分が幾ら勉強してもでき上がったところを追いかけていくということにおいて、私より優秀な人がいっぱいいるはずだと。なら一切やめようと。勝てない分野でオリンピックに出ようとするのはやめようと思った。それが大学一年の前期です。この割り切りってわりと変わってるでしょう。心の中で中退を決意したようなものです。普通の学生はみんなある程度の点数をとるために勉強をしようと思うはずですから。

だけど、私は大学のカリキュラムにある科目の修得に対して、エネルギーは使わないようにしよう勉強は一切やめようと、進級ができればもう充分だと。面倒な格変化のフランス語も御免なさいと。それで、ある科目はよくできる女の人にテストを書いてと言った。私は優を取ろうと思わないし、仮に優を取ったらその人は気分がよくないだろうし、私は可でいいから可の範囲まで書いてくれないかと。たまたまそれに私は学校で顔が広かったから、君が持っていないノートは全部集めて来るからと言ってお願いした。

つまり、先人が作り上げた学問体系を後追いで学ぶのは絶対やめようと思った。もしくは旧来よりアカデミズムとして確立されていることを学ぶのはやめようと。これは本気で思ったんですけど、そうしたら大学での授業やゼミは自分にとって急に色あせたものに見えたんです。そこで何を学ぼうと思ったかというと、一般的に言われるいわゆる社会勉強です。つまり世の中がどうなっているのか、真剣に観察しようと思った。社会に在る法則性や摂理まで、自分なりに探求したいと思ったわけです。真剣に見るのはひとつの大学の中だけでウロウロしていては不十分なわけです。そこしか見られないから。

だから、機会があったら風来坊のようにひゅっとあっちに行ったり、こっちに行ったり動けるように、時間は自由というフリーランスにしておかないといけないわけです。次はこんな予定がありますとか、授業に出ないとあかんとか、そんなんしてたらあきません。クラブが終わって次におもろそうな興味ある話があったら、即あちこちに行く。そんなことばかりやっていた。

例えば、関西学生庭球同好会連盟にボールを寄附して応援してくださる篤志家がいらっしゃいました。じゃあ、あの紳士はなぜ、あんなにボールを寄附できるようになったんかなと不思議になりますでしょ。学生の目から見ればテニスのボールってそれなりに高価なんです。それなのに、「君ら試合があるんだろう、持っていきたまえ」と言って何カートンも寄附してくださる。そういう人のところに会いに行って、学生の分際では伺い知る事のできない視点のお話を聞かせてもらっていました。

要するに、既存のアカデミズムと学問体系内にあるものを学ばないで、活きたナマの世の中を学ぼうということなんです。つまり、静的な過去ではなく、動的な現在をもっと深く知りたいと。よく考えたら新聞学専攻とはそういうことだと勝手な解釈をして。新聞学というのはあまり体系だってないでしょう。ジャーナリズム史があったり、広告論やコミュニケーション論があったり、一定の型にはまらず、柔軟性のある内容だったのが救いでした。

四年間、敢えてアカデミズムで学ばなかったことが自分には幸いして、卒業する間近には一日も早くビジネスマンとして実社会に出て、当時の私のテーマであった「世の中を学ぶ」を実践したくてたまらなくなり、ウズウズして来たのをはっきりと覚えています。

このアカデミズムの対極にある「世間を知る」ことこそ自分自身のレーゾンデートル(存在意義)だと認識して、それをビジネスの場で両立するのは、必然的に法人営業職以外にはないとメラメラ燃えた心で、入社したのがまるで昨日のようです。

実際に営業職として外に出てみて、帰れとか間に合ってるよと言う、つれない言葉は確かにいっぱいあったんですけど、その程度のことは当たり前の話です。でも、社会や世の中を知るにはその重要な構成単位である企業のことを知りたいと思いました。しかも、より深く知るには未取引先よりも、お取り引き先になって頂く方が、遥かに懇意になれますし、より情報や知識も得易くなるはずです。そして、自分自身の取引先が一〇社よりも一〇〇社になった方が、知識の取水口は増えるのですから、会社から期待されるいわゆる"業績を上げる"観点とも合致するわけです。

そうやって、あちこちに注文を頂く取引先を広げることが、結果的に会社の売り上げにもつながります。営業職として取引先の売り上げを増やすということは、自分も学ばせ頂ける先生が増え、ネットワークが広がるわけですから、自分にとってもプラスです。給与は大して変わらないのに、単に会社の売り上げがふえるだけだとか、これ以上やっても損だとか、そんなけちなことは思わなかったです。

学校のカリキュラムをあまり学ばなかったかわり、世の中がどうなっているのかというテーマを、乾いたスポンジのごとく必死に吸収しに行きまくりました。これが私のモチベーションでした。

ランキングに載ることは、私にとって本質的にあまり意味はありませんでした。単にランクの上位にいたいという表層的なモチベーションは続かないで切れる。私のモチベーションは内在的なもので、ファウンテン(泉)のごとくあふれ出てきました。なぜなら、心の底から自分のためになり、好きで楽しいと思っていたからです。

就職情報センターで素晴らしい成績を残した松井は、一九八三年リクルートに戻って『月刊ハウジング』の創刊に携わることになる。

『月刊ハウジング』は当時の社内では、その後二代目の社長に就任された位田さんが陣頭指揮を執られ、重要な位置付けの新規事業としてスタートしました。この情報誌はお取引先がせいぜい三〇~四〇社です。あの部門でどうしても取引先を膨らませたいというときにはとことん深く入らないとできません。だから、日常先方のオフィスに出入りすることに加え、ご自宅にも宅訪もするということになるわけです。

その当時、リクルートではそのようなことは誰もやっていませんでした。みんなせいぜい会社に伺ってじっくり話し込むぐらいで、アポイントなしで飛び込むのすら怖い人もいて、アポイントが取れてからでないと新規開拓にはあまり行かない風潮があった。


(入社四年目に書いた文章故、荒削りな点はお許しください)

『飛び込みのススメ』 松井隆

(一九八四年七月リクルート幹部向け社内誌「Recruit Management Bulletin」に掲載)

新規クライアントに営業を仕掛ける場合、リストアップからクロージングに至るプロセスにおいて、頭を悩まされるのが、最初の「ファースト・アプローチ」であろう。

このファースト・アプローチには、二つの方法がある。ひとつは、事前にアポを取ってから出かける方法と、もうひとつは、アポを取らずに訪問するやり方、いわゆる、飛び込み営業である。私はここで自らの体験をもとに、飛び込み営業の効用をランダムに述べてみたい。

ひとつは、全くの新規の初回訪問の会社であっても、できる限り張りのある声で「まいど」、または「こんにちは」といかにも馴染みの出入りの業者のような顔をして、ツカツカと事務所の奥まで入り込んで、決裁権のありそうな人の隣まで行くことである。このやり方は、社長以下全員がワンフロアーで仕事をしているような中小企業には効果てきめんである。

逆に、玄関で受付嬢が対応するような大企業の場合はどうかといえば、こちらが『人事の○○課長お願いします』というと、必ず『お約束は?』と聞き返される。そこで『約束はない』と答えると、そういう指示が出されているのであろうが、往々にして、留守だとか、会議中だとかいう断り文句が返ってくる。それなら、事前にアポイントの電話をいれて、たとえ断られていようとも、『今朝、電話させてもらいました』と何食わぬ顔で言うと、ほとんど一〇〇%近く取り次いではくれる。担当者は、本当に手が離せない用事がない限り、面会に出てきてくれることも多いのである。

それでも面会できない場合は、仕方ないが、黙っておめおめ帰ったのでは、リクルートマンがすたる。必ず先方の会社案内なり、商品パンフレットを頂いて、何らかの手がかりを得る工夫をすることだ。また、その場で自分の名刺に、当日の訪問趣旨を書き込み、改めて時間を頂戴したい旨を明記して、手持ちの資料類と共に自分の名刺を丁寧にクリップで留めて、伝言を依頼するとよい。後ほど電話を掛けて改めてアポイントを取ってみると、意外にうまくいくものだ。手紙を書くのも有効だ。

伝言を頼むときのコツは、受付嬢の名前を念のために尋ねておくと、相手の責任感も増し、こちらの伝言がより正確に伝わり易いし、同時に、このようなやりとりの中で、担当者は一日のうちで何時頃、比較的手がすくのか、というような情報も得易くなる。

事実、ある新規クライアントで、受付兼役員秘書から、ある日の二時にリクルートと同業他社の営業マンが来るので、その前に来ればどうですかとの連絡をもらい、午後一時に飛び込みで行って、受注できたこともあった。

このように、先方の直接の担当者のみを担当者と決めつけて、他の部署の人には、我関せずという態度ではなく、飛び込みで、足を運ぶ際には、特に、先方の会社の全員を巻き込んでいくくらいの気持ちが必要であろう。

最後に、新規クライアントを開拓する、最も手堅い方法を説明します。

それは、どうしても新たにお取引きをお願いしたいと思うクライアントへの飛び込みを、毎日の行動予定の最後に義務づけて、そのスポンサーへ立ち寄ってから帰社することである。現在でも、やはり、夜打ち、朝駆けは有効である。とりわけ、夕方少々遅い目の時間は、受付嬢もいないし、他の来客もめったにないゴールデンタイムである。

先方担当者も、一日の仕事を終えて、ほっとひと息ついているタイミングであるから、会ってもらって、じっくり座り込んで話を聞いてもらえれば、こちらに流れが変わる。元来、新規クライアントから断られる理由は、それほど論理的な理由があるわけではない。だから、根負けしてもらうまで通い続けるのに限る。だから、このねばり勝ちを一度体得すれば、どんな難儀なクライアントに出くわしても、それ以降は飛び込み営業を先方担当者との根比べのゲームにまで、昇華させることができる。

特に、自分自身若い頃苦労した担当者や、また、それなりの地位に居る人は、一生懸命やっている若者や、みどころがある達者な営業マンに出会えば、必ず力を貸してやろう、引っぱり上げてやろうとしてくださる、今も昔も普遍の社会の力学が働いていることを信じて。


『宅訪のススメ』 松井隆

(一九八五年七月リクルート幹部向け社内誌「Recruit Management Bulletin」に掲載)

リクルートの各事業部門の営業対象は、おおむね法人相手に行っている。そこで我々は普段、担当者や直接の決裁者を訪ねて、事務所や工場に足を運び営業活動を行っている。

ところが、日常の営業活動に於いて、必ずしも先方から、我々の期待する返事が期待どおりの時期にもらえるとは限らない。かといって、その会社との取引を落とすわけにはいかなかったり、極めて大きな受注を頂戴しているクライアントで、他社で埋め合わせがきかないような状況なら一大事だ。

クライアントの構成上、常にこのような状況にある大阪のハウジング情報課では、奥の手として『宅訪』を決行しているのである。

ただし、念のため付記させて頂くが、宅訪とはリクルートのような法人営業主体の企業では珍しく感じるかもしれないが、ハウスメーカーやマンションのデベロッパー等の不動産業界では、このスタイルの営業が常態なのである。

宅訪の効用は、大きく分けて三つある。ひとつは、一般的な断り文句でなく、担当者の真意が聞き出せ、次の営業の突破口が見える。

ふたつめは、その担当者のところへ出入りしている他社の営業マンと差別化でき、当方の真剣さを、先方に身をもって理解していただける。

三つめは、当然、アポも取らずに出向き、先方の無防備な状態に遭遇することで、精神的にも心理的にも距離感が近くなり、人間対人間という関係が築けるきっかけになる。

ひと口に「宅訪」といっても当然のことながら、まず、担当者の自宅の住所を知っていなければならない。直接ご本人の口から聞ければよさそうなものだが、一般的には、自分の住所を易々と口外してくれる、常識のない担当者は少ない。

また、逆に堂々と聞き出せるくらい以前からリレーションができあがっている担当者になら、あえて宅訪してまでリレーション強化に努める必要もなかろう。

■日頃から事務の女性とのリレーションは作っておきたい

上場企業や大手企業の役員以上の役職者の住所は、おおむね「役員四季報」「日本紳士録」に事細かに記されている。しかし、大手の課長職以下の担当者や、中小の経営者の場合には、容易に調べにくい。そのような場合には、なんといっても、事務の女性から聞き出すのに限る。

ここで大前提となるのが、その会社に営業に行く際に、常日頃から、担当者の事務の女性とも、少なくとも名刺交換くらいはして、名前を覚え、顔馴染みになっておくことである。

ひとつの企業を自分が担当していると思い込んでいる営業マンのほとんどが、直接の担当者とその上役ぐらいしか名前も知らないということでは、いざ、担当者の住所を教えてもらおうと思いたっても、「住所をしる」という第一段階で、たちまち挫折してしまう。常日頃から、事務の女性とも、挨拶を交わしほんの少しのリレーション作りに努めておけば、住所のたぐいの情報は、いともスマートに、かつ正確に入手できるのである。

■"宅訪したい"という直筆の手紙は忘れずに

住所がわかれば、もう半分成功したようなものである。しかしここで、安心してはいけない。

誰しも事前に、菓子折類(ポケットマネーで買える範囲)の手土産は用意するであろうが、それより、最も大切なものがある。

宅訪の趣旨をしたためた丁寧な直筆の手紙である。

この手紙があるがために、たとえご本人様が留守の場合でも奥様に手渡せば、こちらの伝言が確実に伝わる。

また、多少ハデな品物を携えて行った場合であっても、こちらが物のみ持って頼みに来たというより、心も届けたというよい印象を与える効果もあることを忘れてはなるまい。

(具体例略)

一見、宅訪とは、前近代的で極めて非効率的な営業活動のように見えるが、今まで、全ての宅訪は、我が課に於いては、プラスに作用している。そして、宅訪する毎に私は思う。自分が担当している会社のこと、御担当者個人のこと、知っている事柄といえば、ほんのごく一部の断片的なことのみ。もっと、もっと詳しく深く知る必要があるのでは。ほとんど、うわべの情報だけを基に、企画だの、提案だのとなんとおこがましい営業をしていることかと。

また、担当者と、単なる社交辞令的な世間話ができる間柄になった時点で、一方的にそこそこリレーションが良いと思い込んでいる営業マンが多いのではないだろうか。

その程度のリレーションというのは、門前払いを食わされなくて済むようになった、面識があるというレベルのリレーションに過ぎないかもしれないのに。

もし、まだ「宅訪」の未経験の営業マンや管理職がおられたら、是非この機会に、手始めに、簡素なお中元をメインクライアントのご自宅に自ら出向いてお届けになってみてはどうでしょうか。

私はきっと、先々の営業に良い結果が生まれる事を信じて疑いません。


私は社会人になり、営業職に就き、日々どうすればもっと業績が上がるのであろうかと常に考えをめぐらせていました。そして、営業しかも、対法人営業というものを科学したいと思うようになっていました。実際に社会人になった頃は営業にまつわる本もたくさん読み漁ったことがありました。しかし、その多くは対個人相手の営業について述べられたものがほとんどで、つまりカーディーラーの営業職の方が個人相手に自動車を累計何百台、何千台も販売したとか、保険の外交員の方がとんでもない金額の保険を個人を主体に契約を頂戴したという内容がほとんどで、一般的な法人対法人の営業職のテキストになり得るものは、しかも当時のリクルートの法人営業力を凌駕する企業での成功例や具体例は皆無といっても過言ではなかった。とりわけ、法人営業の中でも重要であるのが法人営業の新規開拓営業である。

これは、かの有名なピーター・F・ドラッカー先生の「経営とは顧客の創造である」という主旨のコメントからも裏づけられるでしょう。経営にとって最も重要な課題のひとつである新規企業との取り引き開拓の一貫した流れやノウハウを体系化し、言語化し、形式知として社内で共有できるようになればと願って、前項のような駄文を発表していたわけです。

本質的に営業社員の本当の値打ちというのは新規企業の開拓力だと私は思います。既存のお取り引きを前任者から引き継いで担当し、フォローしてゆくというプロセスは、平均的な営業社員に任せても、ある程度の結果は出してくれます。しかしながら、こと新規開拓の法人営業は、成果を出せる人と全く成果が出せない人の二つに峻別され、業績には雲泥の差が出てしまいます。

側面から見ると、新規開拓の得意な営業社員はほとんどが、既存顧客への対応も難なくしこなします。けれども、既存顧客とのコミュニケーションがスムーズだからといって、その営業社員に新規開拓を任せても、必ずしもうまくいくとは限りません。つまり、逆は真なりじゃない。ただし、経営的視点に立って見ると、各営業社員が新規開拓ができ、得意であるかどうかという件は、すごく重要で、無視できないマターだと私は考えていました。

だから、私はお預かりした部下や新入社員の人達を新規顧客の開拓ができる営業マンに育てたいなと思って、他の後輩にもその辺のノウハウを伝授してきたつもりですし、ただ漠然と頑張れじゃなくて、具体的にこうしてみてはとか、こういう動きをした方がいいよというふうにやってきました。事前に準備しているか、その準備はどういう内容かというふうに掘り下げて、具体性を持って教えていました。私は比較的若い時期、確か二七歳ぐらいで課長に抜擢してもらった。世の中でいう課長というのは、大体プレーイング・マネジャーが多いですけれども、当時のリクルートはマネジメント専任でした。

だから、自分がやるだけじゃなくて、部下にいかに納得してもらうか、どう伝授していくかということも相当考えました。

営業社員にとっては、最も大切な心構えや取り組み姿勢などの概念的なものを、どのように言語化し、文章化し、視覚化し、共有するかに関しては、学生時代の試験より遥かに頭を使いました。組織の中でこれらを共有することが可能となって、部下の人達ともこれらの暗黙知を共感できるようになると、一体感が生まれ、さらに強い組織になっていったような気がします。このような一連の体験を三四歳のときにまとめて執筆したものを『バカな部・課長につける薬』(東洋経済新報社刊)として出版して頂いたのです。

では、改めて当時言っていたポイントを整理してみます。

営業社員が法人企業と接する上で心懸け、留意すべき点は何か?

ひとつは、お客様から提案力・課題解決力という観点で見て使える人間だという信頼を得ることです。これは、論理的な左脳を鍛えるということでしょう。

もうひとつは、懇意になり、親しく仲良くかわいがられる存在になるという観点です。これは感性の面で、右脳を磨くということです。要はお客様から人間として、より好かれるようになる努力をするということです。

このふたつの指標を基準としてお客様の目に自分がどのように映り、どう評価されているかをシビアに凝視すれば、必ずや人間対人間として、お客様と気持ちも通じ合った上で、実務スキルも向上させて頂けるのである。

そういうふうに、若いうちに管理職をさせていただきながら、教えるということの難しさを感じたり、教えたことによって彼らや彼女らが多少スピードアップして育ってくれて、業績に貢献してくれたのを見て、これが教える勘どころかなというのをある程度体得できたと思います。それは成長企業に入って、若いうちに管理職を任せていただいたゆえの最大の収穫です。

再び、玉井の証言。

「彼は大きな仕事をもらってきたメンバーをもちろん誉めましたが、一方で新規のお客様から発注をいただいたときには特に誉めました。また、一件で一億円の仕事も誉めますが、一〇〇件で総額一〇〇〇万円の仕事を一層誉めました。理由は新規の場合「新しいお客様に納得頂くことはリクルートの財産が増えたことである」。次に件数は、「君を信用してくれたお客様の人数のほうが売り上げ額よりも尊い」と。また、小さなお取り引き額の仕事でも読者が喜びそうな貴重な求人広告を頂いてきたときは、自分自身も心から喜びみんなの前で発表したものでした。「読者が喜ぶ情報誌を作ることができなければ、情報誌は成り立たない」と。営業は足と頭で稼ぐのですが、足は圧倒的に無駄が多く苦しい作業です。それをわかった上でメンバーの心の琴線に触れる言葉で誉めます。本気で仕事をしていなければ言えない言葉です。情報誌を魅力的にするには、正確性、検索性、網羅性、そしてニュース性が必要です。そのどれかが事業経営にバランスよく貢献してこそ全体がうまく運ぶわけですが、一般的には売上高が注目されます。そんな中でも、各営業社員が自分からは言い出しにくいけど誇りにしているようなことを、きちんと見抜いていて気持ちよくみんなの前に披露してくれる方でした。口だけの心配りを行う人間にはできない事です。本当に商売が好きだから持てる視点だと思います」

『月刊ハウジング』は東京と大阪の二拠点で全国をカバーしていました。だから、私は大阪支社にいながら、名古屋から九州までの西日本エリアを一人で担当していた。突発的な出張は日常茶飯で、事務のスタッフに「アポイントが入ったから、今から広島に行く。ちょっとローソンへ行って下着買ってきて」とよく頼んでました。それで、今度は広島から電話して、次はやっぱり高松に行ってから帰ると。

家内は泣いていました。でも、しゃあないと。まだまだ得るものがあるなと思ってましたから。

『月刊ハウジング』を一年半ぐらいやった後、これも当時の新規事業のINS事業部の関西で最初の課長になりました。INS事業部は全社でピーク時には一〇〇〇名くらいの陣容にふくらみましたが、事業の立ち上げ当時、大阪支社のハウジング情報課の課長と、INS事業部の課長を私は兼務していました。それを半年間やった。

ハウジング情報の取材で工務店の社長さんのところへ伺いながら、頭のスイッチを切りかえて、次は理系の学校を出て毎日大型コンピューターを扱っている情報システム部門の理論好きな担当者のところへ回線リセールの営業に出向くわけです。先様の思考パターンが違い過ぎて、こちらは目を白黒させていましたが、ほんとに楽しんでやっていました。

なるほどこの業界に住む人はこういう物の考え方をするんだなと。業界によって特徴や体質があるということは、自分にとってクロスカルチャーの体験で、まるでミニ世界旅行みたいなものでした。

やがては自分で会社を創業したいという気持ちが旺盛な好奇心の塊だった。

学生のときは漠然としたものでしたが、社会人になり営業を始めて二年目くらいからです。時期を見て自分も創業したいと強く願うようになっていました。実際、何人もの経営者に接し、彼らのライフスタイルを垣間見させて頂きました。そばで拝見しても気楽そうに見える経営者は一人もおられませんでした。企業の規模に関わらず、すべからく経営者の皆さんは、朝早くから夜遅くまで働いておられましたし、今月の資金繰りは苦しいとおっしゃいつつ連帯保証もあり、大変だけれどもやりがいのある仕事だと思えて仕方なくなったのです。もちろん、うまくいかずに資金ショートして倒産したり、逃げておられなくなった経営者にも遭遇致しました。このように常にリスクと隣り合わせであっても、経営の舵取りはとても魅力的に感じました。

日本では経営者を目指すと言うと、お金や名誉を欲しがっていると一般的に思われがちですけれども、私は自分で自分の決定がしたかった。稟議書をまとめて、どちらに転ぶかわからない決裁を仰ぐというのは、基本的に御免こうむりたかったのです(笑)

自分で本心から、やるぞと決断したら、たとえトライ・アンド・エラーしながらも、自分で自分の尻を拭う方が向いているし、心地よいなと思ったからです。そのためには、まだまだ一杯身につけないといけないことがありました。

創業する時期の目安に関しては、リクルートで学べることは最大限学ばせてもらおう。それからでも遅くないと思っていました。こんな最高のフィールドはほんとになかったですから。まだまだ勉強することのほうが多いと謙虚に思っていましたし。二九歳か三十歳くらいで部下の人達を七十人くらい、預からせて頂き、組織運営や人事の勘所も体得させて頂けました。

ちょっとした会社の社長並みのマネジメントを要求されていたわけだ。

それをはっきり言ってノーリスクで学ばせてもらっていました。頑張る、とことんやる、そのような前向きな社風の中でやらせてもらえたということは、自分にとっては最高の経営シュミレーションになりました。

東京に転勤になったのは二八歳だったと思います。INSの回線リセール事業で、直接売るのもいいけれども、リクルートがリクルートより大きな会社を代理店に使うくらいじゃないとダメですよと、当時の専務に進言をしてしまった。つまり、三菱商事、三井物産、住友商事、丸紅、伊藤忠といった九大商社各社に、リクルートの代理店になっていただきましょうという提案です。その頃は電話工事店さんに代理店になってもらっていたわけですから、こんな発想をする社員はおりません。

それを言ったら君がやれという辞令が出たので、三菱商事さんから兼松江商さんまでの九大商社の東名阪合計二七拠点を、私一人で担当した。これもきつかった。今、名古屋の住友商事さんが終わったので、これから東京の三菱商事さんで打ち合わせです、あしたは朝一番で大阪の丸紅さんと打ち合わせという感じです。そういうふうに三ヶ月ぐらい東名阪兼務でした。その後、東京専任になって、次長として七十人ぐらい預かったんです。INSの回線リセールです。

おもろいと思いながらやっていましたから、別にストレスでヘロヘロになるようなことはありませんでした。その当時は、松井が無茶なことを言っているように部下の人達には見えたかもわかりませんが、決して理不尽なことは言いませんでした。法則的にこうしたほうがええよとは言ってましたけれども、おれに黙ってついてこいみたいなわけのわからんことは言いませんでした。

今でも理不尽なことを社員の皆さんに押しつけようとは思っていませんし、それで人が動くとは思っていません。メンバーも新卒で入社した一年目、二年目、三年目ぐらいの人達ばかりでみんな若かったですから、それが論理的であっても不条理に聞こえている人もいたと思います。でも、それをストレートに受け入れてくれて納得してくれた何人かは、やっぱり伸びてくれました。入社してしばらくの間は素直に教えられたとおりにやったほうが成長が早いですから。

その後『ガテン』の創刊をさせていただいた。『ガテン』の営業部は人数的には大きい部門でした。多いときには契約社員の人も含めて約二五〇人の世帯でした。

何でも楽しめる人だ。会議の場でも宴会の場でもいちばん楽しそうなのが松井だそうだ。この人は酒を飲まない。

これだけ鋭角的に成長して来た企業で、第一線の営業部門を率いて来たことを振り返っても、実務面ではつらいということはあまりなかったです。ただ、リクルートはいつの間にか、普通の会社になっていくプロセスがつらかった。創業者の江副さんがリクルートを経営しておられた基本ポリシーは、よその真似を一切しなかったということです。だから、オリジナリティーが一〇〇%だった。

ところが、しばらくしたらバランスと称してだんだん横並びになって、他社も見るようになって、オリジナリティーが薄まってしまった。今がだいぶ平均的です。傑出した創業者の江副さんが編み出されたパラダイムは残っていると思いますけど、カルチャーはだんだん一般的な会社に近づきました。それが残念だなということが、つらかったといえばつらかったかなと。

リクルート事件の直後、どうしようと多少迷走した期間はありました。でも、ありがたいことに社内にまともな危機感が芽生えて、へたすればこれはつぶれるという緊迫感をみんなが素直に持てましたから、お客様離れを起こさないで乗り越えることができました。

情報誌を作るというノウハウは、基本的には全部江副さんが創業時に発案されたものです。新聞広告の中にバラバラに載っている広告を、分野毎に一冊の情報誌に見易く集約しようと。加えて、その営業を広告代理店に任せずに、自社の直販営業で開拓して行こうと。

しばしばなぜリクルートは、現在でも毎年一〇〇〇億円も営業利益が出ているのかと、ご質問を受けることが多いです。ご質問される方は斬新な企画の情報誌を何十誌も発行しているからだ、という答えを期待されているようですが、私自身の見方というか解釈は違います。

確かにリクルートの情報誌も出版物ですから、もちろん企画も大事です。しかし、企画だけがポイントならばリクルートよりもずっと先輩の出版社である、講談社や小学館の編集部ならいくらでも優れた企画が生み出されるはずです。ところが、名門出版社にはリクルートのように全従業員の半数が法人営業の営業社員として毎号、毎号締め切りを追いかけて、数多くの企業を動き回っているような体質の営業組織を持ち合わせていないことが決定的に異なるのです。その現場の第一線で、週間の情報誌なら年五十回、隔週なら年二五回、月刊誌でも年一二回(営業~受注~取材~原稿作成~チェック~印刷・製本)の締め切りに遅れないよう身を粉にするように、全国をかけずり回っているからなのです。この営業力と機動力が、まさにリクルートのコア・テクノロジーであり、利益の源泉になっているのです。あわせて、こういう高速回転している営業や制作組織のストロングなマネジメントも、コア・テクノロジーと呼ぶに相応しいと思います。

ひとつほんとうに辛かったことがあります。

九〇年、九一年というバブルの余韻が冷めやらぬ頃に、リクルートが「時短」と言い出した。マスメディアにも当時の日本は、世界各国と比べても年間労働時間が長過ぎるという批判記事がいくつも載っていました。私はそのときガテン事業部で、営業部長を任されていたのですが、『ガテン』というのは現業職の従業員を採用なさりたいというお客様から注文を頂くわけです。例えば、とび職の職人さんを採用したいという会社さんには、先方の本社に朝七時に行かないと、親方自身も工事現場へ出かけてしまうんですよ。八時半には仕事先の現場に着かないといけないですから。だから、営業マンが九時から出かけて行っていてもまずいし、六時半に先方の本社へ到着していないとだめというアポイントもしばしばある。でも、リクルート社内では社長が「時短」を説く。私はこの事業部を発展させようと、真っ向から「時短」について異議を唱えていました。それは辛かったですね。マスメディアも理念のように「時短」とはやしていましたし、世間の企業も労働組合も「時短、時短」の大合唱で、あれがひとつの要因で日本企業全体、そしてオフィスワーカーの人達が腰砕けになった。もし私が経済レポートを書いたら、「時短論議」が日本を弱くしたと指摘したいですね。

現に世界的に勝ち組に入ってグローバル展開している多国籍企業の日本法人を見ても、オフィスワーカーの人達は時短とは無縁の働き方を今も続けておられることが、その証左だと思いますけど。

一九九七年(平成九年)、松井はリクルートを退社し、株式会社エリートネットワークを設立、代表取締役に就任した。

エリートネットワークというのは、正社員専門の職業紹介をしている会社です。派遣やテンポラリーな仕事は一切扱わず、正社員のキャリアアップのみにターゲットを絞って、二〇代と三〇代のビジネスパーソンにフォーカスを当てた職業紹介を行っています。

事業内容はヘッドハンティングと求職者の相談に乗って転職先を探すことの両方をやっています。ヘッドハンティングでいえば、企業からの依頼で関連会社の社長のポジションでB君をスカウトしたいとか、もしくは株式を公開する企業から公開準備を全部任せられるような人をスカウトしたいというような依頼が来ます。求職者からのアプローチでいうと、海外の大学に留学しMBAを取得して帰国したので、今後のキャリアに関して意見を聞かせて欲しいとか、現在都市銀行に勤めているけれども、今後は金融業界とは別の業界でキャリアを積んでいきたいというような相談が内々に来たりします。そういうことのお世話を水面下でする仕事ですね。

労働者から搾取するような商売はしたくない、だから人材派遣業はしないと松井は言う。エリートネットワークでは求職者からは登録料もカウンセリング料も紹介料も徴収しない。

退職は潮時だったということです。辞める大分前にそろそろ卒業させてもらいますとトップに報告に行って、あとは御礼奉公しますので好きなように使ってくださいと。私はリクルートに育てて頂いたという報恩の感謝の気持ちはありますから。

折しも九六年か九七年の頭ぐらいに、日本でも人材紹介業をもっと自由にやらせなさい、事業の許可をもっと簡単に出しなさいというような勧告をILOが日本政府に対して出してくれた。それがなければ人材紹介業の免許は自由化されなかった。職業紹介業の免許がとりやすくなると風の噂で聞いていましたので、じゃあ、これで行くぞと。

職業紹介業に従事している方は、比較的人事部門経験者が多い。これは何となくわかるでしょう。ところが、例えば鉄鋼メーカーの元・人事部門、繊維メーカーの元・人事部長というのは、その会社の中のことは詳しくても、あまりほかの会社に取材に行ったりしたことは少ないでしょう。ずっと社内の人事畑をやっていたから人事部長にまで上りつめた。そういう人が、候補者が相談に来られたときにカウンセリングできたとしても、他社の状況をニュアンスに至る迄詳しくお伝えするのは苦しいでしょう。私はリクルートにいたお蔭で、入社以来三〇〇〇社以上の営業に出掛けましたし、あわせてインタビューや取材に行ったわけです。だから、どこの会社がどんなカルチャーでどんな業態であるとか、どんな雰囲気なのかというストックがかなり蓄積されている。

転職する人は、デジタルな数字でわかるデータではなく、先方の会社がどんな社風で、どんなカルチャーで、働いている人はどんな就労意識をもっている人が多いかというアナログな部分を一番知りたいわけです。それがわかる。例えば、三菱重工さんならこんな雰囲気だけれども三菱電機さんはこんな感じだよというように、同じ三菱グループでも違います。それを候補者の方に伝えるということにおいて、我々はそれなりに優位性があるのではないかと。

それを丁寧にお伝えしていったら、そこそこいけるという勝算が立っていました。紹介業の免許も政治家にお願いしなくても自由におりそうだということで(笑)、九七年が独立するその時だったんです。

もうひとつのぶっちゃけたところは、もともと江副さんから「君は商売に向いている」と言われたのも、独立の支えになる大きな柱でしたね。リクルート事件以降、江副さんを批判される方もおられますけど、私は根本から江副さんを信奉しています。例えば、早稲田大学だったら、大隈先生が当時政治家として毀誉褒貶があったとしても、大学を創立してくれたのは大隈先生であるわけです。同志社大学であれば新島襄先生がおられたから学校ができたわけですから、創立者が悪いと言う人間は学校に通う資格がないという話ですよ。会社も一緒です。いながらにして酷評したり、文句を言ったりする人がおりますけど、私はそれは絶対筋違いだと思います。私はリクルートにものすごく感謝しています。

私は辞めるとき、だれともけんかしてないし、揉めるようなこともなかったので、門外不出のリクルートの代理権を十何年ぶりにもらいました。これには、事業立ち上げ期の厳しいとき、随分助けられました。だから、会社を始めて丸三年、うちは『B-ing』と『とらばーゆ』の代理店として、それらも案内していました。普通、くだらないでしょう?でも丸三年経って、本業が忙しくなり、お蔭様で職業紹介業のみで手が回らなくなって来たため、この代理権は、一昨年有り難く返上させて頂きました。

ですから、なぜ辞めたかという話で言えば、機が熟したということと、免許がおりやすくなったこと、いい意味で大きな会社、大きなフィールドでほぼ学ばせていただいたからということですね。全部学んだと言うたら嘘になりますから、ほぼ学ばせていただいたという感じです。

独立して100%の自由裁量権を手に入れた現在、次の目標は何なのか。

質の高い、顧客満足度の高い会社を目指そうという気持ちはめちゃくちゃ強いです。でも、先に成長目標ありきで膨張していこうという気は全くない。それよりも二〇〇年も三〇〇年も続くのれんを大事にする会社をつくろうと思っています。例えるならば京都の老舗ということです。

どういうことかというと、仕組みやシステムに頼りすぎず、手作り感覚を残すというコンセプトです。人様を扱うわけですから、AさんとBさんは違いますよね。共に入行一〇年目の同期生の銀行員であっても、AさんとBさんは当然志向も転職に対する考え方も異なります。AさんもBさんも共に満足していただけるように、血の通った個別のサービスを提供していくノウハウは、仕組みにもシステムにもコンピューターにも置き換えにくいですから、我々カウンセラーが気持ちを込めて、一人一人をアナログに対応していく。つまり老舗の饅頭屋さんと同じ精神です。オートメーションで同じ形のシュークリームを何十万個作るということではなく、技にこだわってウサギの形にしたり、お月見の形にしたり、桜の葉っぱをつけたりという手作り饅頭屋さんです。そういう意味で、同じことならプレステージが高く、顧客からの指名度NO.1の、三〇〇年続く饅頭屋さんを作ろうと思っています。

何が主軸かといえば顧客です。それで、将来的には体力がついて結果的に筋肉質で成長していくことは、大歓迎ですが、先に経営計画ありきで膨張するという方向は一切否定します。だから創業以来こういう理念を納得してくれた人だけ働いてくれています。ですから社員も別にあせっていない。

逆の意味では拡大する会社の手法というのは、リクルートで目一杯やらせて頂きましたから。私が入ってから、リクルートグループの売り上げは二〇倍から三〇倍ぐらいになったんと違いますか。年商が二、三〇〇億円の時にリクルートに入れて頂いてから、グループでマックスの時には七〇〇〇億ぐらいの売り上げ規模になっていましたから。

エリートネットワークの経営手法は、何年以内にIPOとか、何年後に上場とかいうことは、全く考えていません。今、証券市場を意識しそれを活用した近代的経営のメソッドについて書いてある本がたくさんありますけれど、MBA流的な経営手法とは全く逆をするということを、創立以前からお取引先にも社内にも公言してご理解を頂き、今までご支持頂いて来たお陰で今日があるということです。ありがたいことです。

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当社は、全国に約20,000事業所ある人材紹介会社の中で、厚生労働省が審査し、 わずか43社しか選ばれない「職業紹介優良事業者」に認定されています。
※平成26年(第一回認定):全国で27社のみ、平成30年:全国で43社のみ
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